後編
それでも…いいの…。と、ヒナタがネジを見詰めた。 その縋るような瞳に、ネジはぞくりとした。 (この人のどこにこんな艶かしいものが隠されていたんだ?) 話しはわかった。 ヒアシがネジの血を宗家に取り込みたいがゆえに、ヒナタに命令したのだと。 宗家との縁談を拒否し、更に呪印をも密かに解印していたネジへ脅威を抱き、 あの男は夜も眠れなかったのだろう。 そして、困ったヒアシは、ヒナタに目をつけたのだ。 (縁談を拒否しても、俺の気持ちに気付いていたか…やはり宗主だけある。) ヒアシに懇願されたヒナタは、色々考えた末にある謀を思いついた。 でっちあげの色任務で、ネジが房術を自分に施すように彼女は仕組んだのだ。 そしてそれによって、ネジの子種を宿そうと。 そこには、見放されてきたヒナタが、父に認めてもらいたいという切実な想いしかない。 ネジは、唇を噛み締めた。自分自身を求めてのことじゃない、それが彼の胸を引き裂いた。 「…ヒナタ様、悪いな。こう見えて俺はロマンチストでな。愛がない行為はしない主義なんだ。」 たとえ任務でも、とネジは呟いた。それが必要なら幻術ですませる、と更に付け加えた。 「だから、諦めてくれ。」 そう言い切ってから、ネジはふと目を疑った。 「ヒナタ様?!」 任務が終わってから落ち合ったから、もう夜もとっぷりと暮れている。 ヒナタが居間の電気を消した。暗闇が舞い降りて一瞬とまどってしまう。 だがすぐに闇に目が慣れ、障子ごしに差し込む月明かりもそれを助けてくれた。 室内は青味がかった静寂に包まれる。 「愛があれば…いいんですよね?」 震える声がネジを貫いた。彼女は何を決断しようとしている? 衣擦れの音がネジの鼓膜を震わせる。微かな月光に照らし出された肢体が目に飛び込んできた。 時が止まったかのように、ネジはそれから目が離せなくなって、思考を止めた。 「…私…ネジ兄さんの事、ずっと恐ろしいと思っていました。で、でも…その反面 ネジ兄さんを…どんな形にしろ、自分の近しい存在にしたかった…」 「?!!」 「分家としてでも、従兄としてでも、…兄のような存在としてでも、とにかく何でもいいから あなたを私の傍に…繋ぎ止めたかった。…あなたは私を嫌っているだろうから…恋人の選択肢は 思い浮かべることは…なかったけれど…」 一歩、一歩づつ、ヒナタが微かに震え、涙ぐみながらネジへと近付いてくる。 「でも、このままでは…兄さんは離れていっちゃう。…従兄としても分家としても、私から遠ざかる。 そ、そんなの耐えられない、きっと、寂しくて、耐えられないっ」 「こ…この想いは、愛じゃないですか?」 「ヒナタ様…」 「あなたを私に縛りたいという、この思いは…愛じゃないですか? わ、私、ネジ兄さんに抱かれたい、抱き締められたい、父上の思惑だけじゃ…なかったんです。」 「?!!」 「あなたに…本当は…愛されたかった…。でも、それを認める勇気がなかった、 だってあなたは私を嫌っていると思っていたから…」 でも、今回の件で本当の気持ちに気付いたのだと、ヒナタは言った。 だから…ここまでしてしまったのだと。一糸纏わぬ姿でネジへと歩み寄っているのだと。 「私にだけでも…愛はあるんです…だから…駄目ですか?ネジ兄さん…」 どくん、どくんとネジの心臓が強く高鳴る。 彼女には、愛があるだって?ネジをヒナタに縛り付けたいだって? (嘘だ、そんな筈はない。これは彼女の手練手管だ、俺をはめようとしてるんだ。) だが、それが何だというのだ?ネジは…誰よりもヒナタを愛してきたのだ。 彼女の気持ちを思いやって、身を引いたが。今だってヒナタだけを愛しているのだ。 (もし罠だっていいじゃないか…何を躊躇う必要があるんだ?) それに、ヒナタは嘘が下手だ。すぐに見破れる。 今のヒナタの言葉に嘘は微塵も感じられない。 (だが、しかし…) ネジは儚い最後の抵抗とばかりに、彼女の眼を覗き込んだ。 そして洞察眼をもって得たものは、彼に稲妻のような衝撃を与えた。 (嘘…じゃない。) ヒナタの言葉は全て、本物だった。 ヒナタの白い顔が、手の届くところまできた。薄紫の大きな瞳に、光る雫。 ああ、彼女の涙は何て綺麗なのだろう、そう思って引き寄せられるように ネジはヒナタの顎に手をかけていた。 瞬間、びくんっ、とヒナタが震える。ここまでの事をしておいて、怯える姿に。 ネジの体が熱くなった。怖くて仕方ないくせに、必死でネジへ愛を請うヒナタに ネジの全身が、魂の奥深いところまでが痺れていくようだった。 堪らず、唇を重ねていた。最初はほんの軽く、それから何度も小鳥のように啄ばんで。 ついには深く酔いしれるようにヒナタの唇を吸い求めていた。 「い…いいの?ネ…ネジ兄さん…本当に…?」 ネジの体の下で、ヒナタが信じられないといった声で問いかけてくる。 今頃になって、ネジへ申し訳ないとかそんな遠慮が浮かんできたようであった。 だが、それはいらぬ心遣いだとネジは静かに微笑む。目を見開くヒナタにネジは更に言った。 「実は俺もあなたを、愛しているんだ。だからいいんだよ。」 ヒナタが息を呑み、次いで嬉し涙を浮かべる。 本当に?本当に?と何度もネジへと縋りつくようにヒナタが囁いた。 (なんて…健気で愛らしい…) ネジは完全にヒナタへと堕ちていた。 深夜、ネジは自分の腕の中ですやすやと眠るヒナタの髪に唇を寄せる。 なんて他愛もなく、己に負けて彼女に堕ちてしまったのだろう。 ネジは暗闇を見詰めながら、静かに自嘲する。 あんなに、彼女を殺そうとした罪悪感と償いの想いから、決して己の欲望で 彼女を汚すまいと心に誓っていたのに…。 (だが、彼女は俺を愛している。そして俺も…彼女以上に強い想いで愛しているんだ。) だから、もう過去にこだわる事はやめようとネジは思った。 決して彼女を殺そうとした罪は消える事はないし、許されるべきものではない。 でも、それにこだわって大切なものを見失う必要などないのだ。 (これからは彼女の傍にいて、彼女を死ぬまで愛し、そして守リ抜くんだ…。) こんな幸せな誓いがあるだろうか? ネジは安心しきって眠るヒナタへと、優しい口付けを落とした。 そうして満たされた思いに包まれて、彼も眠りに落ちたのであった。 日向一族の宴の席で、ヒアシは満足気に初孫を腕に抱いていた。 先祖がえりした天忍の血をもつネジと、宗家のヒナタの子供。 ヒアシの望み通り、嫡流に天忍の血を取り込む事が叶った。 「あれだけ頑なに宗家へ婿入りすることを拒んだネジを、 呪印なしでよく迎えることが出来ましたな。」 ネジの呪印が既にないことを知っている重鎮の一人がヒアシに耳打ちする。 「実は…一族の中でも有力な家の者たちが、ネジの血を欲して、何人も娘を 差し向けたそうですが…その誰にも堕ちなかったそうですよ。」 「ほう。」 「あれは不能だ、衆道だと、みなネジを嘲ったそうですが…とんだ誤解でしたな。 まさか、このような立派な子供を授けようとは…いやはや、ヒナタ様はいったい どんな魔法を使われたのか、さすが宗家のご息女だけありますな。」 「わしには、子細は知れぬ。だが、それほどに身持ちの固い男を、あれが堕としたと いうのなら…」 「?」 「やはり、それはあれが持って生まれた美徳ゆえであろうな。」 「美徳?」 「あれは自分では気づいておらぬが、誰よりも慈悲深く優しい。 宗家嫡子としては憚られた性質だが…」 「・・・?」 「天忍を堕とすには最高の資質となった。 わしはあれに大金星をやりたい位だ。」 ははは、と笑うヒアシに重鎮の男もつられて笑った。 二人の視線の先には、仲睦まじく寄り添う若夫婦の姿が映っていた。 (了)
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