前編

 

日向ヒナタは困惑していた。
(どうしよう?きっと無理…)
でも、やるしかない。
あの堅物で有名な従兄に、自分は今からある試みをしなければならない。
これは避けられない事。逃げられない事。
だって。
あんなに懇願されたら…あんなに…弱々しい眼差しで、それを頼まれたら…。
『わしの最後の頼みだ、聞き届けてくれぬか?』
白髪がまざった髪が、はらりと顔にかかる、疲れきった父の顔。

そこでヒナタはきゅっと握りこぶしを作る。
手の中は汗でじっとりとしていた。
でも。
強い決意を胸に、彼女は彼の家へと向かう。
父が、唯一自分に願ったことを、叶えてやる為に。



「何の用だ?」
玄関先で、無愛想に応対する一つ年上の従兄、日向ネジ。
冷たい口調。鋭い眼差し。せっかく綺麗な顔をしているのに、
こんな表情をするのはもったいない、とヒナタは思う。
けれど彼は自分がどんなに恵まれた容姿をしているのか
一向に気にかける素振りさえなく、
だから、相手にどう思われようと構わないのか、
彼は誰に対しても辛辣で皮肉屋な態度をとっていた。
特にヒナタに対しては、昔からの軋轢の名残か
その態度は辛辣で容赦がない。
それだけでも堪らないのに…ヒナタは俯き、泣きたい気持ちを耐える。
こんな棘だらけの相手に自分は…
一度でも殺意を向けてきた相手に自分は…
彼がヒナタに抱く感情を想像するだけで身が竦む。
だが、ヒナタは唇をきゅっ、と噛み締めて決意を思い出す。
(ち、父上の頼みごとだもの。怖気づく訳にはいかないわ…)

ヒナタは俯いていた顔を上げて、ネジへと強い視線を向けた。



「あ、あの…お願いがあるんです。」
「お願い?」
ネジの形の良い眉が顰められた。
だがヒナタは、震えながらもそれを口にする。
「私に…力を貸してくれませんか?」
「…力を貸せだと?…ふっ、何も宗家の権力で命令したら如何かな?
 そんなまどろっこしい言い方しないで。」
皮肉めいた口調でネジが鼻を鳴らした。
「で、何に協力すればよろしいのかな?」
ネジから漂う冷たい空気。彼は今もヒナタを嫌っているのだろうか?
(従兄妹なのに…)
せつないものが込みあがるが、今はそれにかまっている余裕はなかった。
ヒナタは、今一度、勇気を振り絞り、ネジへと口を開く。
「あ、ある人物を…篭絡するのに、きょ、協力を…」
「?!」
「…くのいちの…色の任務には、必ずサポートの…男性の忍びが就くと聞いてます。
 だ、だからその相手にネジ兄さんをと…」
目の前のネジの顔色が酷く悪く見えたのは、気のせいだろうか?
ヒナタは、突然押し黙ってしまったネジに戸惑っていた。



父ヒアシの願いとは。
大事にしてきたモノを、ある人物から取り返して欲しいとの事だった。
「ち、父上は、最近そのせいで不眠症で…体調を崩されてしまって…」
涙が溢れてもうヒナタはネジをまともにみれなくなっていた。
「そ、そしてその人物は…とても強い男の方で…父でも対処できなくて…」
「それで、色じかけで油断させて、その奪われたモノを取り返せと?」
「はい…」
「解せぬな。何も他のくのいちを使えば良いではないか?こういっては何だが、
 あなたのような青臭い生娘などに…色仕掛けなど…無謀すぎないか?」
「…私でなければ、駄目なんだそうです。」
「なに?!」
「…よくは分からないけど…父がそう言ってました。だ、だから…」
「っ?!」
「いたらない私のサポートが出来るのは、天才のネジ兄さんしかいません。
 お願いです、力を貸してくれませんか?」
縋るようにヒナタはネジの袖を思わず掴んでいた。


ネジは不機嫌ながらも、承諾してくれた。
それにヒナタは、ほぅと小さく安堵の溜息をつく。
とりあえず、第一の関門は乗り越えられた。
そして、これからが大変になる。


「ヒナタ、どんな具合だ?」
ネジの家から戻ったヒナタにヒアシが話しかけてきた。
「あやつは、協力してくれると?」
「は、はい…渋々でしたが…」
「そうか…すまぬな。だが…これはお前にしか出来ぬこと。
 頼んだぞ?ヒナタ。」
小さい頃から厳しい叱責しか吐き出される事がなかった父の口から、労わりの言葉。
思わずヒナタの胸が熱くなる。
(ち、父上に認められるなら、何でも出来るわ…)
たとえ、それが恥ずかしい行為でも。
ネジの冷たい態度に、萎えそうになっていた勇気が、再び湧き上がった。



通常の任務をこなしてから、二人は綿密な計画を練るために
ネジの家で落ち合う。
ヒアシ個人の依頼、しかも極秘との事。
一族内々に済ませたいせいもある。
「とにかく、あなたの色任務についてだが…
どこまで相手に譲れるかで、俺の成すべき事も決まる。」
ネジが紙にペンを走らせながら、コツコツと叩く。
意味をなさない円の中央でペン先の点が紙に穴が開くほど刻まれていた。
「どこまで許す?触る程度か?それとも…」
コツコツとネジはペン先を紙につき立てながら、ヒナタを睨みつける。
「最後までか?」
そこでヒナタは真っ赤になった。
声をなくし震えるヒナタにネジが息を呑む気配がする。
おそるおそる、ヒナタが彼へと俯いていた顔を上げると、
ネジが険しい顔で彼女を凝視していた。
「あ…あの…ネジ兄さん?」
何故、彼はこんなにも怒っているのだろう?そんな疑問が湧いた。
(私を嫌っているなら、その私が傷付く事を喜びこそすれ、怒ることはないのに…)
ヒアシの頼みごとがヒナタの頭をよぎる。
『お前にしか出来ないのだ…頼む、どうかあれを…』

父の真意はよく分からないけど、自分は期待されているのだ。
ヒナタは怒りを滲ますネジへと話しかける。
「…必要なら…最後までする覚悟はあります。」
瞬間、ネジの目が大きく見開かれた。



「ようく分かった、そこまで大事なものなのだな?」
「え?」
「そのとりかえしたいモノだ!一体なんなのだ?」
ネジが苛立ち、ヒナタの腕を掴んだ。
「いっ…痛いっ!!」
「あなたが身を投げ出してまで、とりかえしたいものは?!」
「う、腕がっ…離して?にいさっ…」
「ヒアシ様でも歯が立たない相手だって?誰なんだ!」
「にいさっ…」
「この俺でも敵わぬ相手なのか?!」
「にっ…」
「あなたなんかの色仕掛けに頼らざるを得ない相手とは?!」

容赦なく、指が食い込むほど腕を掴まれて体を揺すられる。
ヒナタは苦痛に小さく悲鳴を上げていた。
だが、怒り狂ったネジはヒナタを責め立てる。
ヒナタは堪らず、声にした。

「それは…」

言いそうになって、口を咄嗟に閉ざした。
いう訳にはいかない、まだ駄目だ。



冷や汗をかきながらも咄嗟に口を閉ざしたヒナタを見て、ネジは激昂した。
(協力を願いながら、その依頼のターゲットを口にしないだと?)
俺に知られては不味い、何かが裏にあるのか?
怒りで冷静な判断が出来なかったネジだが、
ヒナタの反応にひっかかるものを感じて正気になった。
(一体、何を企んでいる?)

ヒナタを解放して、ネジは彼女を注意深く見詰める。
息を乱して、震えるヒナタ。完全にネジに怯えている。

(…こんな女に…何が出来るというんだ?)

二十歳を過ぎても少女のようなヒナタ。忍びらしかぬ善良な性質。
宗家の嫡子として見放され、それでも今はまだ分家には落とされていないが。

(こんな色任務をいいつけるとは…ヒアシ様もとうとう決断したらしいな。)

ネジの目に狂いがなければ、このヒアシからの依頼は娘を宗家から
分家に落とすための罠に違いない。
哀れな彼女は多分、父に謀られているのだろう。
そうネジは推察した。


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