星の雫(中編)
 

「ナルトは…もう体中ボロボロだったのよ…」

冷たい雨の降る日だった。
アサヒは憂いを帯びた眼差しで病院のベッドに横たわる火影を見詰める。
消毒薬の鼻につく臭いと白いベッドと、重苦しい独特な空気に亡き父の最期を思い出し胸が詰まった。

「昨夜の暴走も…もう限界だったのね…九尾を封じるための神経がずたずたになって…ナルトは…っ」

医療忍者の最高責任者であり、火影婦人でもあるサクラの緑の瞳に涙が溢れる。
 
「ナルトはっ…もうそんなに生きられない…っ…うぁ…あっ…」

崩れ落ちるようにサクラが夫に縋りつき声を殺して泣き出した。普段気丈にふるまう彼女のそんな脆い姿に
一瞬ハナビを思い出し、アサヒは苦いもので胸が潰れそうになる。

(あの人もそうだった…)

最愛の夫と娘を亡くした哀れな叔母の…脆く崩れ落ちるような後姿・・・。

(あの人もそうだった…あの気丈な人が人目もはばからず泣き叫び…)

――そうして僕を憎悪のまなこで睨みつけたのだ――

己に甦るあの日の忌まわしい情景をそっと胸のすみにしまい、アサヒは優しくサクラを支えて立つように促した。
昨夜から一睡もしていない彼女を休ませる為にである。彼女の為に火影付きの忍に預けようと部屋を出て、
もう外来もない午後の病院の静かな廊下をゆっくりと歩いた。廊下の角に来ると、察した火影付きの者が待っている。
アサヒに手をとられ、憔悴しきっていたサクラだが、火影付きの忍の迎えに少し落ち着いたのか、アサヒに振り返った。

「ありがと…アサヒ。あなたがいなかったら…ナルトは死んでいたわ…。生きて…昨夜のナルトを止められる人間は
 あなたしかいなかったから…」
「…いえ…」
「アサヒも…ナルトは落ち着いているから…もう帰って休んでね…」

華奢な姿が遠ざかるのを見届けて、アサヒは火影の病室へと踵を返した。警護の忍が何人もついているが
今や生ける屍にも等しい火影から目を離せなかった。暫くは傍についているつもりである。

病室に戻ると、無機質な機械の音と医療忍術を施された器具が部屋を覆いつくし、夕暮れに灯る青白い蛍光灯の
光りがナルトを更に生気のない人形のようにみせていた。
昏々と眠り続けるナルトには無数の管が繋がれている。童顔で無邪気な彼の、そんな明るい面影は一切なく。
暗い死の影が漂うばかりであったから…それにネジの姿を重ね見てアサヒは思わず目を逸らしてしまった。

(父上…)

最強で無敵だと、死などとは程遠いところにいるのだと、そう信じていた偉大な忍が。
儚い塵のように呆気なくこの世を去っていく。

死に例外はない。どんな者にも平等に死は訪れると、生前ネジがよくそう言っていたが。
あの頃のアサヒは、この偉大な父が死ぬなんて想像もつかなかった。それはナルトに対しても同様であった。
だが今やネジの言葉は現実となってアサヒに冷たく降りてくる。
死に例外はなく、この目の前の偉大な火影も直、天に召される事になるであろう。
彼が昨夜対峙した九尾を殺した瞬間に彼の死も決まってしまったのだから…。
そっとアサヒはナルトの手を握り締めた。

(火影様…あなたは僕などより重い運命を負いながらも、人の為に生きてこられた…素晴らしい人でした…)

血の気のない青白い顔が、苦悶も消えて穏やかになっている。こんな穏やかな彼の表情は久々であった。
思えば彼が火影になってこの三年、彼はあまり笑うこともなくなっていた。どこか辛そうな横顔ばかりが
印象に残る。

(あなたは辛かったのですか…?あなたも辛かったのですか?)

きゅっ、と力を込めてナルトの手を握り締める。力の抜けきった大きな手はゴツゴツとして硬かった。
この手が木の葉を守り、皆を守ってきたのだ。この不器用そうな傷だらけの手が。
幼い頃、道端で人懐こい笑みを浮かべながら竹とんぼを作っていたナルトの姿を思い出す。
内気で人見知りのあるアサヒが、子供達に囲まれたナルトに近寄れず柱の影で戸惑っていたのを
彼は気付いて招きよせてくれた。その時の手の温もりと大きな掌に胸が満たされ彼が大好きになっていた。
不器用な彼が作った竹とんぼはどれも上手く飛ばなかったけれど、その優しい心が何よりも大事な思い出になった。
その…彼の手が…力強かったその手が…今は力なく…握り返すこともない。
知らず涙が頬を伝う。
長年封じてきた九尾の暴発に己の全霊をかけて戦いを挑み、相打ちとなって死の床にある彼は。
アサヒがそれまでに見たこともない、安らかな顔で微笑むように眠っている。

それは解放される喜びゆえか…

「こんな不器用な手で…それでも皆を喜ばすためにあなたは頑張ってきたのですね…火影様
 その明るい笑顔の裏でどれだけの悲しみを抱えていたのか…命懸けで九尾を長年封じ続けたあなたの
 …あなたの皆への無償の愛を…僕は忘れません…火影様…」

胸が熱くなって言葉が途切れてしまう。己の不甲斐無さに苦笑しながら涙を拭うアサヒであったが
その時、ぴくり、とナルトの手が動いた。
それに驚いてアサヒはナルトの顔を覗き来む。見れば微かに目が開き、何か言いたげであった。

「意識が戻られたのですね?す、すぐにサクラ様をお連れします…!」

だがナルトの手がアサヒを呼び止め、微かに開いた唇が彼にここにいろと伝えていた。
戸惑いながらも、ナルトの枕元に寄り添いアサヒは彼の言葉に耳を傾ける。
ナルトが微かな声で語り出した。

「ご…めん…俺さ…お前にだけは…わが…まま…ばっか…だったよなぁ…」
「火影様…」
「昨夜も…お前がいてくれた…から…布団の上で死ねることに…なったしよぉ…」
「っ!!」
「…すんげぇ…疲れちまったんだ…俺さ…だから…頼んで…いいかな…?」
「?」
「この里の事…お前に…頼んで…いいかなぁ…?…ほら、お前、俺に恩があるだろ…
 むかぁし…竹とんぼ作って…やった恩が…さ…だから…だから…
 俺の願…い…最後の…わがま…ま…聞いて…くんねえ…かなぁ…?」
「ほ…かげ…さまっ…」
「泣く…なよ…お前ってば…泣き虫だな…そんなんじゃ…七代目の名がすたるぜ…?」
「僕はっ…僕には…無理です…あなたが生きて…生きて火影の名を守り続けて下さい!!
 あなたなら不可能を可能に出来るでしょう?!死なないで下さい!死なないで下さい!!」

細められた青い瞳が優しく微笑んだ。


「ごめん…ごめんな…でも…今回ばかりは流石に寿命みてえだ…」
「っ?!!」
「ネジやヒナタ…死んでいった仲間が…見えるんだよ…もう…」


(もう…静かに眠っていいんだよって…そう笑っているんだ…)
 

「あいつら…俺を待ってる…だから…ごめんな…」
「火影様!!!」
「…サクラ…呼んでくれ…アサヒ…あとは頼んだぞ…」


慌しい空気が病室を駆け巡った。最後の時が近づいた火影のもとに親しい者と側近が駆けつける。
最後の気力をしぼってナルトが遺言を皆に伝え、そして皆はそれを真摯に受け止めた。


病室の角で呆然と立ち尽くすアサヒへとナルトが視線を投げかけ、

「次代火影は日向アサヒだ。皆、よく彼を助けてやり、火影として育ててやってくれってばよ…」

と、強い瞳で皆に言い聞かせた。



それから皆の承諾を得て安心したのか、ナルトはまた昏睡状態に陥った。
明け方近くになって心音が小さくなり、朝日が昇りきる頃には完全に呼吸が停止していた。


「六代目火影、ご臨終でございます。」


臨終を告げるその声にアサヒの体から何かが抜け落ちていった。また…また大事な人を失ってしまった。
だが悲しみに浸ることは出来ない。今この瞬間に自分がナルトにしてやれるのは涙を流すことでなく
彼が愛した里を守りその遺志を引き継ぐ事だけ。彼を安心して逝かせてやる事だけ。

でも、目の前で気丈にも涙を堪えるサクラの姿を見ていると目頭が熱くなる。
悲痛な面持ちの彼女を慰めるようとして、しかしその手を退いたアサヒの耳にサクラの声が響いた。


「ありがとう…ナルト…もう休んでいいのよ?ゆっくり眠っていいのよ…?私達は…あんたが愛した
 木の葉の里を…生涯守り続けていくから…あんたに頼ってばかりだったけど…もうこれからは…
 ちゃんと自分達で頑張るから…だからもう…ゆっくり休んでいいのよ?」


耐え切れず涙を啜りながら淡々と語り続けるサクラに、その場にいた者は居た堪れず病室の外に出て行く。
二人きり残されてもサクラは夫へと語り続けた。




「ナルトっ…あんたは馬鹿だからっ… ひ…人の事ばっかりだったけど…
 もうこれからは天国で自分の好きなことだけやって…しあわせに…っ
 しあわせに…なってよね…っ」


(サクラちゃんがいねえのにしあわせにはなれないってばよ…)

「っ?!!」

(でも…俺はいつも傍にいるから…サクラちゃん達を見守っているから…だから泣かないでくれってばよ…)

――サクラちゃんは泣き虫だから…それだけが心配だってばよ――

「ナルト…っ!!!」

幻聴でも狂気のなせる業でもいい。サクラは己の心にじかに届いたナルトの声に、胸が詰まった。
そこに含まれた限りない愛情と、死にゆく際にまで人を思いやる彼のあたたかさに感動で涙が止まらなかった。

「ナルト、愛してるよぉおおっ…ナルトォ…やっぱり嘘だよっ…私、あんたがいないと辛くて悲しいよっ」

もう声は届かない。だがサクラはナルトの亡骸に縋って泣き叫び続けた。

「私を置いていかないでよおぉーっ!あんたがどんな姿になっても生きて傍にいて欲しいのにっ!!
 ナルト…ォ…やだよっ…いやだよっ…あんたがいない世界なんていやだ…ぁ…」




遠く離れた廊下まで響く悲痛な叫び声。アサヒは目を閉じて唇を噛み締めた。
愛しい人の死は、残された者の心を殺す。




また一つ、星の雫が流れ堕ちていった。






                             
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