第十五話「愛」
――― 守るって、ずっと昔から決めていたんだ。だって僕は君が好きだから・・・ ―――
ひんやりとした感触が頬に走って、ヒナタは目を覚ました。ぼんやりとそれに手を伸ばす。
無意識に手に取るそれは、最近よく知る感触で、ヒナタを何より幸せにしてくれるものだったから。
「ネジ兄さん、来てくれたの?」
ヒナタの頬に触れていた冷たい大きな手。ヒナタは愛しさにその手を両手で包んで頬擦りする。
すると、ネジの穏やかな声がかえされた。
「ああ、ただいま、ヒナタ。そして・・・ありがとう。」
「・・・チヨさんから聞いたの?」
甘えるような仕草でヒナタはネジを見上げた。
ネジの瞳は物憂げに。
睫が影を落とし、ヒナタを静かに見詰めている。愛情に溢れた眼差しだった。
「ああ、すごく嬉しかった。こんなに嬉しい事は・・・・そうない。ありがとう、ヒナタ。」
「ネジ兄さん・・・・」
「ヒアシ様も俺たちの結婚を祝福してくれたんだよ、その上・・・赤ん坊まで授かって・・・」
みしりとベッドが軋んだ音を立てた。ネジの息がヒナタの唇にかかり、柔らかなキスが落とされる。
しばらくお互いを確かめ合うような口付けが交わされた。優しい労わりと愛に満ちたそれに
ネジの深い愛情が伝わって、ヒナタは幸せに涙が溢れる。
つ、と唇が離れて、ネジがヒナタの涙を優しく指で拭った。まじまじとヒナタを見詰めて彼は囁いた。
「…俺の子を身ごもった事、あなたが後悔してないか・・・昨夜は不安だった。」
「そんなことっ!わ、私は嬉しかったのに・・・」
「ああ、あなたを一目見た瞬間、伝わったよ。あなたも俺と同じ気持ちなんだと…嬉しかった。」
「んんっ・・・」
今度は濃厚で熱いキスをされる。舌を吸われてヒナタは朦朧としてしまう。うっとりとネジからのキスに
酔いしれていると、ゲフンガフンと大きな咳払いが聞こえた。
ネジが慌ててヒナタから身を退きベッドから跳ね起きると、いかつい大年増な看護婦が入り口に立っていた。
「あ、あの・・・ヒナタが世話になりました。」
きまずいながらもきちんとネジは挨拶をする。すると、ギロリと鋭い眼光が返されて、ネジは思わず息をのんだ。
「激しいのは、まだ禁止!」
は? とネジが呆けた瞬間、その老看護婦がさらに言ってのけた。
「幼馴染のチヨちゃんからも、強く頼まれてるからね。病院が休みの日にもお宅に伺って、色々と
駄目亭主なアンタをレクチャーしてやるからね!覚悟するんだよ?!」
がーっ、と顎が外れそうになる位の衝撃を受けているネジを横目に、いかつい看護婦はネジとは別人の態度で
甲斐甲斐しくヒナタには優しく世話をするのであった。
それからどこにも異常がなかったヒナタは無事に家へと戻れた。つわりも比較的軽いらしく、数日後には
会社に出勤するほど元気になっていた。
「ネジ兄さん、いってきますね。」
ネジの担当とはいえ、他に雑務もある。慌しく家を出るヒナタに、「走るなよ!」と心配でネジは叫んでいた。
毎朝交わされる光景にチヨはやれやれと洗濯物を干しながら首を振る。
ヒナタの姿が見えなくなってから、ネジは頭をかりかりと掻きながら書斎に向かった。
本当なら一緒に会社までついていってやりたかったが、周囲の目もあるので控えるしかない。
会長としての自分・・・ヒナタにいらぬ負担はかけたくなかった。
負担・・・。
「よし!早く仕上げるぞ!」
ヒナタの要望も出来るだけ早くかなえてやりたい、だがそのためにはまず処女作を完成させなければ。
ネジは書斎にこもり集中しだした。
(おや、坊ちゃま、お昼を召されなかった。)
夕方になって食器を下げに向かった書斎の入り口には、手をつけられていない昼食がそのまま置いてある。
中の様子を窺えば、ネジが夢中でペンを走らす後姿がみえた。
がさがさと紙を丸めては投げる仕草にチヨは目を丸くした。一昔前の作家そのもの。
今は便利なノートパソコンがあるのにと、アナログな主人にチヨは肩を竦めつつも、ちょっと誇らしい気にもなった。
「チヨさん、お夕飯だって声かけたらネジ兄さん怒るかしら?」
「怒るというより、無視されるだけでしょうね。」
自分から缶詰状態と化したネジを二人は書斎の入り口から眺め、そんな会話を交わす。
部屋の半分は丸められたボツ原稿で、所狭しと埋め尽くされていた。
鬼気迫るものがあるというか、ネジの真剣なオーラがひしひしと伝わってきて話しかけるのも憚られる。
「・・・ほっときましょう、子供じゃないんですし。それよりヒナタ様は睡眠をたくさん取らないと。」
さあさあとチヨに背中を押されて、ヒナタはネジが心配ながらもベッドにいれられてしまった。
でも、ネジの後姿を思うと中々寝付けない。ヒナタはフウと小さく息をついた。
深夜、尿意を感じてネジは漸く書斎から出る気になった。用を足すと腹が空いていることにも気付く。
真っ暗な台所に入り、小さい電気をつけると冷蔵庫を開けた。何かないかと物色していると中段にメモのついた
一皿を見つける。ラップがかけられたそれを冷蔵庫からとりだし、メモを読む。
― お仕事頑張って下さいね ヒナタ ―
思わず顔が綻んだ。更に用意されていた食べ物は、かつてネジが宗家へ訪れるたびに喜んで食べていた
田舎料理だった。ヒナタは彼がそれを好んでいたことを覚えてくれていたのだ、それが彼の心を暖かくした。
レンジで温めて、その料理を味わう。幾分伯母のものより味が落ちるが、それでもネジにとっては何よりも
美味しく感じた。妊娠して体は慣れない状況に疲れるだろうし、そのうえ仕事もしているというのに・・・。
ヒナタの優しさと愛情の深さが、ネジを癒す。汁まで飲み干してネジは器を洗った。一瞬お礼のメモを書こうか
迷ったが、チヨにひやかされるのも嫌だったので諦めた。
その代わり、ヒナタの寝室に訪れると彼はわかりやすい痕を彼女の首筋に残す。
翌日、アタフタとスカーフを首に巻くヒナタを楽しく想像しながらネジは書斎に戻ったのであった。
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