第十話「羞恥」
何日ぶりの我が家だろうか。ネジは、タクシーを降りて、夕焼けに染まる洋館を見上げる。
あの蔦に縁取られた大きな窓。あそこがヒナタの部屋。それを涼しい夜気で高鳴る体を鎮めるように
暫くネジは見上げ、眺めていた。
父の…思いは結局叶えられなかったが、今ではヒナタを選んでいる。亡き父に詫びながらもネジは
己の心に素直になる道を選び、もう迷う事はなかった。
(俺はヒナタ様を、決して離さない…)
強い決意と誓いを胸に、真摯な面持ちで懐かしい我が家の扉に手を掛ける。
軋んだキイという音が響いて、その扉の常ならぬ重さを訝しんでいると同時に、黒い物体が扉ごしに
ネジへとなだれ込んできた。慌てて受け止めると、それは婆やのチヨだった。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ。お風呂の用意が出来ておりますよ。」
「チッ、チヨ!いつも言ってるだろう?!危ないから扉にくっつくなと!」
「年寄りなので、ちょっと凭れ掛かっていただけですよ、ああ、腰が痛い。」
そういって、ネジが扉を開けた瞬間にどさりとネジへと倒れこんできたクセの強いばあやは
腰をトントンと叩きながら、ホールへと向かう。
ネジは、はぁ〜と大きく溜息をついた。咄嗟に受け止めたので問題はないが、毎回ネジを見ると
ちょっかいをかけるチヨには、ほとほと困っていた。たんにからかっているだけなのだろうが。
「チヨ、ヒナタ様は?まだ会社なのか?」
そわそわと、ネジは逸る気持ちを抑えきれず、ヒナタを求めて視線をさまよわせる。
「ヒナタ様なら、お風呂でございます。」
「・・・待て、チヨ、お前、俺にさっき、風呂をすすめなかったか?」
「坊ちゃま、チヨを空気と思ってくださって、結構でございます。お二人でお風呂でもチヨは気にしませんから。」
「なっ!チヨッ!!」
「そんなに焦らなくても・・・ソファも絨毯もチヨが綺麗にしたんですからねぇ・・・」
「ばっ・・・馬鹿なっ!あれは俺がちゃんと手入れしてっ・・・」
「坊ちゃまは完全犯罪の犯人にはなれませんよ。雑ですから。」
「っ?!」
「ともかく、ヒナタ様をチヨは既に奥様として認識しておりますので、後は書類上の問題だけですし
なので、どうぞ遠慮なく睦み合って下さいませ。」
「・・・・むっ////!」
ネジの倍以上生きてきた海千山千のチヨに敵うはずもなく。
散々かまわれて、ヒナタが風呂から上がってきた頃には、ネジの疲れもピークに達していた。
だが、それでも愛しいヒナタがネジをみとめた瞬間、パッと一気に花が開いたような微笑みを向ければ
ネジのたまりに溜まった疲労なども吹き飛ぶようで。
チヨの存在など、すっかり忘れてネジはヒナタを抱き締めていた。どうせ空気ですから、とぼそりと小さく
呟く声がしたが、もうヒナタしかネジの目には入らなかった。
「ヒナタ、ヒナタ、会いたかった…!」
「わ、私も…あ、で、でも…あの…チヨさんが…見てるから…あの…」
「ヒナタ様、チヨは空気なのでお気になさらず。」
「で、でもっ…」
「じゃあ、俺の部屋に行こう。チヨ、夕飯はいいよ。」
「わかりました。」
いそいそと逸るネジに腕を引かれて、ネジの部屋へと連れ込まれそうになる。
だが、ヒナタは、はっと思い出してネジを引き止めた。
「ね、ネジ兄さん、ま、待って?あの、わ、私の部屋に行きませんか?」
「あなたの?」
「お話ししたいことが…あるんです。」
「…わかった、じゃあ、あなたの部屋に行こう。」
どちらにしろ、ヒナタと二人きりになれるなら場所は問わない。だが、話しとは?
階段を一段一段踏みしめる度に、疑念が湧く。ヒナタから改めて話しなど・・・。
と、ネジの中で確信めいたものが閃いた。
(まさかっ・・・出来たのか?!)
いきなり背後で固まるネジに、ヒナタはどうしたのかと心配した。部屋のドアノブを回しながら
ネジ兄さん、と声を掛ければ、弾かれたようにネジが、ああ、と心許なさげに返事をした。
さっきまでのソワソワとした雰囲気は綺麗に消えていて、その代わり何だか妙に神妙な顔をしている。
そんなネジが気になったが、取り合えず、ヒナタは例のものを引き出しから取り出すと、カウチソファに
腰掛けているネジの対面へと正座した。
きちんと身なりを正して、ローテーブルに分厚い茶封筒を置いて、コホンと咳払いするヒナタに
ネジは、益々心臓が跳ね上がって、緊張した。そして目の前に置かれた得たいの知れない分厚い
茶封筒から目が離せなくなった。
(もしや、これが母子手帳という代物か・・・?それにしても…すごい分厚さだな…)
きっと色々な書類とか申請書とか手帳の他にも大量にあるのかもしれない。そうだ、人一人の誕生に
関わる重大事なのだから、この位分厚い書類が必要になるのは当然至極。
(それにしても…分厚いな…まるで小説の原稿用紙なみだな・・・)
ふと、昔書いた小説の原稿を思い出していた。懐かしい、青春の思い出だ、とネジが目を細めた瞬間。
「この原稿なのですが、ネ、ネジ兄さん、本気で作家になりませんか?」
「は?」
(原稿?今、ヒナタ様はこの書類を…原稿と言ったのか?)
と、同時にネジは思わず叫んでいた。
「母子手帳じゃないのかっ?!」
「ええっ?ぼ・・・ぼし?」
きょとんと呆けるヒナタにネジは、更に問いかける。
「出来たんじゃっ・・・なかったのか?お、俺の子供・・・」
それにヒナタが目を見開いて、それから真っ赤になって手をブンブンと振って否定した。
「なっ・・・だ、だって・・・まだ結ばれて・・・半月も経ってないのにっ」
「何だって?」
「あ、赤ちゃんが出来たとしても、ま、まだこんなに早くわかる訳ないでしょっ////」
「あ・・・」
(ネジ兄さんって・・・意外によく分かってないのかなあ?)
自分も性的には奥手な方だが・・・ネジもかなり疎いような気がする。
一度女を連れ込めない発言をしたけれど、ネジを知る人間の話しを聞く限りでは、かなりの堅物らしかったし。
少し嬉しくなって、思わず笑みが零れたが、ネジから、ジロリと睨まれたので慌てて口元を押さえる。
「と、とにかくその話は置いておいて、この原稿なんですけどっ」
「ん?原稿?」
「ネジ兄さんの・・・処女作ですよ、覚えているでしょう?自来也先生に・・・」
「ま、まさかっ?!」
「はい、その、まさかです!」
目をきらきら輝かせてヒナタがネジへと身を乗り出して来る。その顔は編集者の顔だった。
それにたじろいでネジは身を引いてしまった。そしてこの自信に満ちたヒナタの顔から自作が
彼女に読まれてしまったのだと悟って、恥ずかしさに居た堪れなくなってしまうのであった。
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