第六話「みかん」
「ネジ兄さん…」
「ヒナタ様、俺はこの縁談を断る。」
「……」
「そういう訳だから、同居も…もう無理だな。面白半分で世話など頼んだが、それを理由に
結婚なんて迫られたら困るからな。」
「なっ、なんですって?」
「あなたにその気がなくても、ヒアシ様がそう言ってくるだろうよ。だから…もうこの同居も終わりにしよう。」
ネジの提案にヒナタは目の前が真っ暗になってしまった。
何に対して、こんなにショックなのか、うまく把握できないまま、体中が冷たく凍っていくような気がした。
「や…やだ…」
「え?何だって?」
「や…やだ…ここから出て行くなんて…いやです…」
「ヒナタ様?」
無意識に、だが苦しさに耐え切れずにヒナタが零した言葉は、何よりも真実で。
自覚するより先に言葉になって、ネジへと縋るように、それは溢れ続けた。
「いや…いやです…ここに…いたい、お、お願い…ネジ兄さん、出て行けなんて…言わないで?」
「ヒ…ナタ…様…」
「わ、私の事、煩わしいとかっ…結婚相手になんて考えられないのも…知っているけど、で、でもっ…
でもっ、嫌いじゃ…嫌いじゃないでしょう?」
「……」
「ね?嫌いだったら、お世話なんて頼んだり…わ、私を助けてくれませんよね?」
ネジの腕に手を添えて縋るようにヒナタが涙ぐむ。しがみ付くような、その仕草は切実で
思わずネジの胸がギシリと軋んだ音を立てた。
「お願い…唯の従妹でいいの…ここに…いさせて下さい…わ、私…私はあなたが…」
「駄目だ!」
「っ?!」
「俺は…父を…父上を裏切るなんて…出来ない。出来ないんだよ、ヒナタ様。」
「ど、どういう事ですか?」
「宗家とだけは…縁が持てないと言ってるんだ。あなたを助けることは出来ても…それだけだ。」
「!」
「自立する手助けはしてやる。だが…ヒアシ様につけこまれる環境だけは…回避しなければ。
俺も少し浮かれすぎていたようだ、考えれば分かりそうなものなのにな。」
そういって、ネジがヒナタを己の体からひきはがず。その拒絶にも似た行為にヒナタは声を失くした。
大きく目を見開いて茫然自失のヒナタに、ネジが更に追い討ちをかけるように付け加えてくる。
「それに…あなたがこの家にいたら…女も呼べないだろう?」
鋭いナイフで胸を切り裂かれるような言葉だった。そしてその瞬間、完全にヒナタは自覚してしまった。
ネジの…恋人がいるとの発言に傷付く自分は、この想いは…。
(わ、私は…ネジ兄さんが…)
もう、ずっと昔から…好きだったんだ…
ずっと、4つ年上の美しい従兄が好きだったのだ。
だから…気の弱い自分が、ネジが相手でない縁談を拒絶して、自立しようとしたのだ。
あの厳格な父に逆らってまで。
でも…心の底では分かっていた恋心も、いつしかそれを認めるのが、ネジに拒まれるのが怖くて…
無意識に封じ込めていたのだ。誰も好きなんかじゃないって。特にネジは苦手だって…。
ヒナタにはコンプレックスがあったから。
「やーい、みかん、みかん!」
小学校からの帰り道、いつも数人の男子に囲まれては、苛められていた。
「や…やめて…やめて…」
「うっせえんだよ、うわっ、汚ねえ顔してるよなあっ!みかんの皮みたいにブツブツじゃん!」
「本当だー、みかんだ、みかん!」
突き飛ばされて、膝小僧を泥だらけにして家に帰れば、父から無言で詰められた。
それでも漸く開かれた父の口から零れた言葉は残酷な響きに満ちていて。
「…情けない。」
ただ一言。
母は優しくヒナタを抱き締めて慰めてくれたが、小さな妹に手がかかっていたから
ヒナタは余計な手間は、心配は掛けまいと、一人部屋で泣くようになっていた。
鏡に写る自分は、生まれつきの肌の弱さから、いつも吹き出物がたえなくて
汚くかさついた顔をしていた。だから、みかんと皆に馬鹿にされていた。
「ヒナタ様?」
毎年夏になると泊まりに来る、自分とは似ても似つかない綺麗な従兄がある日部屋に訪れた。
汚い肌のこの顔を、従兄に、ネジに見られるのが恥ずかしくて、いつもヒナタは俯いてしまう。
それをネジは不快にとるのか、いつも辛辣な言葉をヒナタに投げかけては益々二人の仲は
険悪なものになってしまった。
だが、何日か経った夏の、暑い昼下がりに、ヒナタの母から頼まれて二人は近所の店に
買い物に行く事になって。
「あっ!みかんだっ!みかんのくせに男なんかと一緒にいるぜ!エロみかん!エロエロー!」
「っ!」
いつもの少年達が、わらわらと現れて、真っ赤になって俯くヒナタと、その横で不機嫌そうに眉を
顰めるネジを取り囲んで、いつものようにからかい、はやし立て始めた。
「みかんのくせに、なまいきー!」
「汚い顔したみかんのくせに、デートなんかしてさ!」
恥ずかしくて、でも怖くて足が竦んで動けなかった。そして何よりもネジに、彼に自分の
あだなを知られたのが、自分が苛められていると知られてしまったことが。
情けなかった、どうしようもなく情けなくて、居た堪れなかった。
だから余計に身動き一つとれず、ヒナタはただ俯いて涙ぐむしか出来なかったのだ。
そんな大人しく何一つ言い返せないヒナタを、彼らは益々馬鹿にしてくる。
「やーい、やーい、ばっかじゃねえの?いっちょ前に恥ずかしがってるよ、コイツ!」
「本当だっ!赤くなって…泣いてんのかよ?みかんのくせに、照れんなよ!」
「っ・・・」
(もうやめてっ)
そう願った刹那、物凄い音が鼓膜に響いた。ずう・・・んっと何か鈍い音がして、夏の熱い空気が
むっと砂埃と共に巻き上がって、ヒナタの顔へと吹きかかってきた。
え?と驚いて顔を上げれば、ヒナタを苛めていた少年達が見当たらない。
驚いて周りを見回せば、足元から、うう、とうめき声がして。
視線を声のするほうへと落としてゆくと、少年達は夏の強い日差しに乾いたあぜ道へと倒れこんでいた。
何が起きたのかと一瞬では理解できなかったヒナタの耳に、ネジの、従兄の聞いたこともない
低くて何かを押し殺したような声が響いた。
「俺の従妹を二度と侮辱するな…」
ネジの、殺気に満ちたその表情に、ヒナタを苛めていた少年達はガクガクと震えだした。
震えて怯えた彼らは、日向流体術を少年ながらも極めつつあるネジからの当て身に更に声も出せないようで。
ただ、地べたに這いつくばって、ネジとヒナタを交互に落ち着きなく見比べて、それから、わあっと
泣き叫んで、よろめきながら逃げ出してしまった。
その遠ざかる少年達の後ろ姿をぽかんと眺めるヒナタに、ネジが小さく溜息をついた。
「あなたは馬鹿か?あんなガキどもにいいようにからかわれたままで。」
「あ、で、でも…」
「あなたならあんなガキども軽く倒せるだろうに。」
「で、でも…体術は私事に使っちゃだめだって…父上が…」
「自己防衛になら許される。あれは暴力だ。あなたは自分を守る為にも今後あいつらが又何か
言ってきたら…拳で叩きのめしてやることだ。ああいうのには、それが一番なんだからな。」
拳で…。女の子なのに?
「さ、行こうか。ヒナタ様。」
慰めて欲しいとか、ネジに望む方がおかしいのかもしれない。だが、助けてくれた事実に感謝すると同時に
ヒナタの肌の事とか、あだ名についてとか、もしかしたら何か励ましてもらえるかもしれないと。
誰からも癒される事がなかった幼いヒナタは、淡い期待をネジに抱いてしまっていた。
だから隣を歩くネジをそっと見上げながら、ヒナタはそわそわと縋るように彼を見詰めてしまって。
そんなヒナタの視線を何と取ったのか、買い物を済まし終えたころになって漸くネジが口を開いた。
「ヒナタ様はみにくいアヒルの子、知ってるよな?」
「え…う、うん」
「アヒルは実は白鳥の子で…成長して美しい白鳥になるんだが。」
「?」
「俺は…この話し、好きじゃない。」
「え?」
「きれいになんて…なる必要ないよ、あなたは。」
「っ!!」
(それは…どういう事なの?やっぱり…こんな肌だから?みかんみたいな私なんて…きれいになれないって、
思っているの? そうなの?あなたも…私を醜いと皆のように思っているの?…教えて?…ネジ兄さん…)
だが、それきり、二度とネジはその件について何も語らなかった。
…ネジからすれば、みっともない従妹の事なんて気に掛ける気にもなれないのだろうと
ヒナタはその後考え直して、一瞬でも慰めてもらいたいなどと思った自分を恥じた。
あの時、助けてくれたのだって、自分の身内が侮辱されて癪に障ったからであって
ヒナタ自身を思ってのことではないのだろうし…だってネジはヒナタをいつも蔑んでいるのだから。
そんなネジに好意を抱いて、傷付くなんて…周囲から散々傷付けられてきた幼いヒナタには
もう耐えられそうもなかった。
だから…封じ込めた幼い恋心――。
「ご…めんなさい…ネジ兄さんに…迷惑かけてしまって…」
わかっていたはずなのに。大人になって自然に肌は治ったけれど…過去の自分を知っているネジが
ヒナタを女性として見てくれるはずもない。わかっていたはずなのに…。
「…嫌だったでしょう?私の面倒なんて…き、気まぐれだったのだとしても…後悔してたんですよね…」
「・・・・・・・・・」
「だ、だって…わ、私は…」
みにくいアヒルのままで…みかんのままで…立ち止まっていたから…
「そんな…従妹の姿が歯痒かっただけ…なんでしょう?ネジ兄さんは…」
あの日。宴会が開かれていた早春のあの日…ネジがヒナタに助け舟を出したのは、きっと
全てにおいて挫折をしらない彼が、何も出来ない従妹の姿に苛立って…それだけの理由でとった
行動だったのかもしれない。
それか…ヒアシに対する歪んだ対抗心からか。彼の娘を彼の意のままから解放して
鼻の穴をあかしてやりたかったのか。
そう、今なら理解できる。最初からネジにはヒナタへの個人的な感情などなくて
ただ、宗家の娘で従妹だから関わってきたのだと。それだけだったのだと。
「でも…感謝してます…ネジ兄さんがいなければ…私、好きじゃない人と結婚させられていたし…」
「・・・・・・・」
「今回の…縁談だって…約束が違うし…わ、私もお断りします。じ、自立を完全にしていないと
思われているのが、この同居のせいなのだとしたら…今後のためにも出て行くべきですしね…」
「…分かって…くれたのか、ヒナタ様。」
「は、はい…私、自由になって…自分で…捜すって決めたんですからっ」
「え?」
「わ、私も早く恋人捜さなくちゃっ、そうしたら、ネジ兄さんに一番最初に紹介しますね?」
「恋人…?あなたが…?」
「はいっ」
上手く笑えただろうか?ネジへの未練や恋心なんてないのだと、彼を安心させられただろうか?
にっこりと微笑みながら、ヒナタはネジをまっすぐに見詰めた。
だが、見詰めた先のネジは、さっきの強気な態度は微塵もなく、酷く動揺しているように見える。
何か、まずい事でも言ったのだろうかと、一瞬ヒナタが不安になって口を開きかけた瞬間
けたたましい電話のベルが鳴り響いたのであった。
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