第五話「ネジの仕事と思惑」
    
「日向さん!これコピーとって!」 
「はっ、はいっ!」
ヒナタが無事出版社に就職して3ヶ月が過ぎていた。
あれから色々と細かな事はあったがとりあえず平穏無事に毎日を過ごしている。
配属になった編集部は女性だけで構成されていて、出版物も女性専門誌だった。 
  
「ヒナタ、ちょっと。」
「はいっ!」

夕日紅編集長に呼ばれてヒナタは急いでその類稀な美人の前に立った。
妖艶で美しいが男に媚びる事ないさばさばとした性格から皆に慕われているこの編集長は
何故かヒナタを気に入ってくれていた。なので名前も呼びつけである。
まるで姉が妹を呼ぶように、それが都会のドライな人間関係に戸惑っていたヒナタには嬉しかった。

「何ですか?編集長。」 

頬を赤らめて問いかけると、編集長は、うん…と顎に手を添えてヒナタを頭のてっぺんから
つま先までマジマジと眺める。それに小首を傾げていると彼女はふうと溜息を零した。

「まあ、ご要望に添えなくて後々叱られるかもしれないが…この際仕方ないわね。」
「?」

(ご要望?誰の?)
疑問に思うも考える間も与えずに紅が言い放った。

「人手不足なのよ、しかも相手は厄介な作家でね。だから本当は新人であるヒナタに担当なんて
 させたくないんだけど。」
「え?た、担当??」
「ええ、履歴書みて驚いたわ、あなた、あの古武道の名家、日向一族のお嬢様だったのね。」
「あ、は、はい、い、いちおう…」
「その華奢で小柄な体で…武道をたしなむなんて、うん。これはあなたにしか出来ない仕事だわ。」

ポンと肩を叩かれる、意味がよく分からず、ヒナタは更に戸惑った。
が、紅編集長はもう決めてしまったようで、校了作業をしていたテンテンを呼び寄せた。

「テンテン、ヒナタをアイツの担当に決めたから、引継ぎしてやって。」

えっ、と青ざめるテンテンの信じられないといった眼差しが哀れみを帯びてヒナタに向けられた時、
少なからずヒナタは自分に与えられた仕事に不安を覚えずにはいられなかったのだった。 

都心から少し離れた緑豊かな町にその担当を任された作家が住むという。
テンテンと共にその作家の仕事場兼自宅へと電車で向かった。

「電車で片道20分というところかしら。本来ならバイク便とかFAXでお願いしたいところなんだけど、
 色々クセが強くてね、直々にお伺いしないと原稿上げてくれないのよ。」

ふう、と溜息をつきながら駅からのタクシーの中でテンテンが事情を話してくれた。

「とにかく、厄介なんだけど、うちの一番の売れっ子だから…ね。」
「そ、そうなんですか…」
「まあ、恐縮しなくてもいい相手だから、固くならないでね?」
「は、はいっ」

気を使うべき作家は気難しい神経質な女性かな?とヒナタは思い浮かべていたのだが、
恐縮しなくていい相手と言われてよく分からなくなってしまった。

「ついたわ」

タクシーを降りれば目の前には立派な門構え、その奥には大きな日本家屋がある。
ヒナタの実家ほどではないが、都心近くでこれだけの規模とは、さすが売れっ子作家の居宅だと
関心していると。

「じゃあ、いくよ?今日は動きやすいように二人ともパンツスーツだし、露出少ないし、うんOK!」
「???」
「さあ、油断しちゃだめよ?門をくぐったら即行で来るからね?」

何が?と物問いたげにテンテンを見るが、彼女は気合を入れていざ出陣とばかりに門内へと入っていく。
それに慌てて後を追うと野太い男の声が耳に入った。

「うひょーvvテンテン来たかっ!待ってたぞっvv」
「きゃーっ!」
「あっ、あぶないっ!!」

先輩に飛び掛る黒い影。助けなきゃっ!とヒナタは我を忘れて殆ど条件反射でとび蹴りを決めていた。

「ぐふうううううう!!!」

それは見事に決まった。
華奢なヒナタの何処にこんな力があるのか軽く2メートルは飛ばされて、その男は手入れの行き届いた
植木へと仰向けに倒れこむ。

「じっ、自来也先生っ」
「え?せ、先生?」

見れば2メートル近くはある中年の大男が「痛いのう」と顔をしかめながら起き上がるところであった。
(こっ、この方がせっ、先生?!)
女性向け小説の売れっ子作家への、ヒナタの想像を遥かに超えた人物は、
担当編集者泣かせのセクハラ親父だったのだった。

「すっ、すみませんでしたっ!!」
「あーあー、構わんからvわしが悪いんだしのう。」

(全くだわ)とテンテンがぼそりと小さく心の中で呟いていると
自来也先生が顎を冷たいタオルで冷やしながら話しかけてきた。

「で、この可愛いお嬢さんがわしの新しい担当になるんかのう?」
「あ、はい、そうです。この春入社したての新人ですが、大変優秀ですので是非にと
 編集長のお墨付きなんですよ。ね?ヒナタさん。」
「あっ、あのっ、そ…そのっ」

思わず頬を染めて慌てるヒナタに自来也が目を細めた。

「…そうかそうか、で?名前はヒナタちゃんでいいのかのう?」
「あ、あのっ…失礼しました、ひゅ、日向ヒナタといいます、よろしくお願いしますっ」
「日向…というと、あんたがネジの…」
「え?ネ、ネジ兄さんをご存知なのですか?」

そこでテンテンが目を丸くした。

「ご存知って!あなた、何も知らなかったの?!」
「え?」

従兄の何を知らないというのだろう。ヒナタが眉を顰める様子に自来也先生が頭をかく。

「まあ、知らんならそれはそれで構わんがのう」

しかし編集者として如何なものかのう、と小さく呟かれればヒナタとて不安になってしまう。
思わず横のテンテンへと縋るように手を握り締め、問いかけていた。

「あのっ、ネジ兄さんの事、どうしてお二人はご存知なのですかっ?」

必死なヒナタに、テンテンが困ったように苦笑しながらも教えてくれたその内容は。

「あなたの従兄はわが社のオーナーよ。」
「え?」
「つまりは会長というやつかのう、あの若さで大した奴だが、知らんかったのか?」

会社の概要とか役員とか忙しくてよく資料に目を通していなかった。
まるで戦場のように慌しい編集部の仕事は、社会人になりたてのヒナタに余裕など与えてくれなかったし。
正直自分の仕事をこなすのに精一杯だった。
(で、でも確かに自分の会社の役員とか、把握してないなんて恥ずかしい事だわ、情けないっ)
自分の事で精一杯で、ネジが何の職に就いているかなんて気に掛けるヒマがなかった。
それにも自己嫌悪してしまう。
そしてなにより。
(どうしてネジ兄さんは何も教えてくれなかったの?)
ヒナタの頭の中はぐるぐるとパニックに陥ってしまっていた。

日向一族は地方の旧家で、いまだ落ちぶれる事ない名家だった。
当主ヒアシの双子の弟だったネジの父親は、祖父から相続した資金を元に小さな会社を東京で興した。
双子ながら当主になれなかった劣等感や祖父に対する反抗心もあって、一族の協力無しで
築き上げたその会社は、優良な中堅企業として成長し、それを5年前に父が亡くなったのを機に
ネジが継いだのだ。
(だがヒナタさまは知る由もなかったろうな、俺があの会社の会長だなんて…)
会社は幾つかあったし、出版社は主力の会社ではなかった。
だから世間知らずな彼女なら尚更、気付きもしなかったに違いない。
ネジが何をして生計を立てているかなど深く考えもしなかっただろうし。
ただ、貿易商だった叔父の跡を継いだくらいにしか、認識していないはずだ。
まさか出版社まで経営しているとは思いもしまい。そしてネジも改めて教えるつもりもなかった。
(そうだ、聞かれれば貿易商をしていると答えるだけでいい)
主力の会社は貿易商を営んでいるのだし。
ヒアシが経営するグループより見劣りはするが、ネジが引き継いでからは大分成長して追いつきつつある。
それはもっともだ、この4年ネジは宗家を訪れる事無く必死で経営に没頭していたのだから。
生前父が「お前は経営者としても天賦の才に恵まれている」と絶賛したほどのネジが本気を出せば、
会社もかなり発展していた。


そうして父から引き継いだ会社の経営も落ち着いた頃、ヒナタの顔見たさに宗家を訪れて…
探偵に定期的に報告させていたヒナタは、純粋で無垢な少女のままで…酷くネジを安堵させた。
だが、縁談の話しがあるときいて、思わず行動に出てしまっていた。
ヒナタを今すぐ誰かのものになんてさせられない、そんなのは許せない、だから。
成り行きを装って、ヒナタを自分の会社に誘っていた。彼女を自分の手元に置いて、宗家から自立させようと。
彼女が自分の意志で生きて、それで誰かを愛するのなら…この思いも少しは報われるだろう。
ネジにはヒナタを妻に迎えることは出来ないが、彼女の幸せに協力する位なら許されるはずだ。

ヒアシに反対されるかとも思ったが、事がすんなりと運んで面食らった。同居さえ、許されて信じられなかった。
だが、それも漸く分かってきた。
(ヒアシ様は俺とヒナタ様を結ばせるつもりなのだ)
ネジの経営の手腕とそのグループをヒアシは己の傘下に取り込むつもりなのだろう。
亡き父が最も恐れていた事だった。
だから、どんなにヒナタを好ましいと思っていても、手が出せずにいたのに。

(どうすればいい?)

目の前に置かれたヒアシからの手紙に、ネジは深く溜息をついた。



「ヒナタ様、話しがあるんだ」
重い気持ちで帰宅したヒナタを、ネジが待ち構えていたように出迎えて、そう言った。
「ヒアシ様から手紙が届いてな、それで話し合いたい。」
父の名にヒナタはびくりと体が震えた。厳格で気位の高いヒアシの横顔が脳裏をよぎる。嫌な予感がした。
居間の革張りのソファーに腰掛けると、ネジは静かな眼差しをヒナタに向けてきた。
それに胸がどきりとしたが、それ以上に次ぎの言葉に胸が震えた。

「俺とあなたを婚約させたいそうだ。」
「え…」

驚愕と供に、ああ、やっぱりと、無意識の内に予感はしていたようで。
だから、ヒナタは眼を瞠ると同時に妙に落ち着いている自分にも驚いていた。
分家の中でも大きな財力を誇るネジの家。幼い頃から、付き合いはあった。
しかし何故か父と叔父は反目していたから、もしかしたらこのままネジとは
縁など持たされないのかもしれないと思っていた。
だが、やはり父は…。

「ヒナタ様は自分で好きに生きて、結婚相手も自分で見つけるために、自立しようと決めたのだろう?」

不意にネジが、言葉を失い思考に陥っていたヒナタを引き戻すかのように話しかけてくる。
そしてその言葉はヒナタの決意を呼び覚ますものだった。
(そ、そうだわ、私は自分の力で…自分を生かしたかったんだわ)
父の言い成りのまま、好きでもない男の妻になって、死んだように生きる事を拒んで、今ここにいるのだ。
(そう、ネジ兄さん、あなたのおかげで…私、やっと一歩を踏み出せたの…)
目の前の、この存在がヒナタを鳥篭から解放してくれたのだ。

だが、それも父の手の中で踊らされていただけなのか、ネジがヒナタの婚約者に決められるなんて。
どこまでも父の、宗家の呪縛から逃げ出せないというのか?
己の力のなさにヒナタは胸が押しつぶされる思いだった。

俯くヒナタの弱気な気持ちを、ネジは察したのか。
ヒナタの視界にあった彼女の手にネジの大きな手が重ねられた。
弾かれたように顔をあげ、彼を凝視すると、優しい微笑を浮かべている。優しい、けれど悲しい瞳だった。
それに気を奪われて声をなくしていると、ネジが口を開いた。

「俺は、この縁談を断るつもりだ」



                             
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