第四話「気付く」

昼間は忙しくて忘れていたけれど・・・。 
      
「夕飯は何か取ろう、疲れただろう?明日は入社式だし、今日は早く休んだ方がいい。」
そういってネジがヒナタへタオルを投げた。
「え?」
「風呂、先にすましてしまえ。俺は蕎麦屋に電話する。」
アナタは丼ものか?とネジに聞かれ頷くと嫌味ったらしく笑われる。
それに少し緊張していた警戒心もきれいに消えてしまった。
「相変わらず大飯食らいだな。ではカツ丼でも頼んでおこう。」
恥ずかしさにヒナタが何も言い返せず顔を赤らめて口をパクパクさせているのを楽しそうに
眺めつつ彼は居間から出て行った。 
大飯食らい。
食べ物を粗末に出来ないヒナタはお腹がいっぱいでも極力残さないように頑張ってしまう。
しかし体質のおかげか肥満にまで到達しないので助かっているのだが。
昔からそんなヒナタをネジはよくそういってからかっていた。
ここ最近のネジに抱いていた好意が跡形もなく崩れていく。
(もう!緊張して損しちゃった。あんな意地悪な兄さんが変な事するわけないのにっ)
自然、頬が膨れる。
昔のままに子供扱いされた事が気に入らないが、身の安全が保障されたような安堵感に
ヒナタは風呂場へと向かったのであった。 
 
(危なかった…)
受話器を置いてネジは大きく溜息を吐いた。初めての二人きりの夜。
昔から大好きだったヒナタと初めて二人きりで過ごすと考えただけで心臓が乱れた音を
立て鳴らした。初心なヒナタでもネジを男として意識しているのか、上気した頬と潤んだ
瞳でぎこちなく話しかけられれば、ネジとて嫌でも理性のタガが外れそうになる。
いくら好きな女とはいえ、合意もなく無体を働くのはネジの男としてのプライドが許さない。
だから誤魔化すように店屋物でも取ろうと立ち上がり、ヒナタをからかってしまったが。
(嫌われてしまったかな?)
でも自分を抑えるためにはどうしても意地悪く当たるしかなかった。
それは昔から変わらないネジの悲しいサガで。
大切で、誰よりも守りたい存在だから。
宗家のお嬢さんだからじゃなくて、従妹だからじゃなくて。
フッと思わず苦笑してしまう。
(さて、店屋物が届くまで居間でテレビでも見ているか)
電話台のあるフロアから居間へと踵を返したネジの耳にシャワーの水音が入った。
瞬間ドキリと心臓が跳ね上がったが何とか誘惑に打ち勝って居間の扉に手を掛ける。
と、同時にヒナタの悲鳴が上がったのだった。 

何事かとネジは慌てて風呂場へ向かった。古い洋館の父の遺した家は見栄えはいいが
結構ガタがきている。それは風呂場も例外でなかった。
軋むドアを開けて何も考えずに、ただヒナタを心配して中へと突入していた。
と、湯煙の向こうからネジへと縋りつく人影。
「たすけてっ!たすけてぇっ!きゃあっ!」
物凄い力でしがみつくヒナタにどうした?と声を掛けて浴室内を見回すネジ。
白いタイル張りの洒落た浴室内は今しがたまでヒナタが使っていたシャワーの湯が
ざあざあと流れていて湯気が立ち込めている。痴漢にでも覗かれたのかと小窓をみれば、
抉じ開けられた様子もなくブラインドがきちんと閉じられていた。…特に何もない。
だがヒナタはガタガタと震えて濡れたからだでネジにしがみ付いている。
一体なんだ?と訝し気にネジが声を掛けようとした瞬間、ヒナタがひぃっと悲鳴を零して
ある一点を指差した。
「きゃあああああっ!ねずみぃっ!!」
言われて見れば浴室の壁の角に大きなドブネズミが頭を突っ込んで尻をむけつつ今まさに
逃走しようとしている姿があった。そしてそれはあっという間に姿をかき消して、あんな大きな
ドブネズミがよく通れたものだと感心してしまう位の小さな隙間だけが、何事もなかったかの
ようにそこに残されていた。
人差し指が入るか入らないか位のその隙間によくぞあんな子猫ほどもあるネズミが出入り
出来たものだと、それに感心していたがヒナタがネズミが去った事にも気付かずに悲鳴を
上げてネジを掴んで揺らすので、思わず見てしまったのだ。
「!」
視線の先に、ヒナタの若くて白いからだが湯の雫を纏ったままネジへとしがみ付いている。
なかでも豊かに育った形の美しい乳房とその先端に可憐に息づいている薄紅の突起に
ネジは目が離せなくなった。
(なっ!!)
ヒナタはまだ恐慌状態でネジの視線に気付いていない。きゃあきゃあと泣きながらネジへと
しがみ付いてくる。
そしてその豊かな乳房を今度はネジの硬い胸板へと擦るように押し当てて抱きついてきた。
(だっ…だめだっ!)
押し当てられた柔らかい感触にネジは慌ててヒナタを己から引き剥がした。
「ヒナタ様、とにかくもう大丈夫だっ!だっ、だから服を着てくれっ!」

浅ましいのか目を瞑る事が出来ない己を情けなく思いながら、それでも無理矢理天を
仰いで目を逸らした。
ネジの掛け声に漸く自分の今の状況に気付いたらしいヒナタが、今度は違う悲鳴を上げて
胸を隠して蹲る気配がした。
「ひゃあっ!」
「とっ、とにかくネズミはもういないっ。ではなっ!」
ヒナタが離れてくれたので急いでその場を去るネジ。
狼狽激しく乱れた呼吸は浅ましく、己の男の本性に苛立った。
苛立って少しでもヒナタから離れたくて自分の部屋へと足早に向かおうとした時
玄関チャイムが鳴り響く。
「ちわー、出前です〜」
ほうっと。その間のびした声に幾分救われたような気がした。悶々とした欲情が静まって
ゆくのを実感し、ネジは安堵の息をつくと玄関へと向かったのだった。


(み、見られた…)
体をタオルで拭きながらヒナタは真っ赤になって焦っていた。いくらネズミが大嫌いでも
あんな醜態を晒して…その上裸のままネジへしがみ付いて大騒ぎして…。
従兄妹とはいえ4つも年が離れているし、幼い頃でも一緒にお風呂なんて入った記憶もない。
親戚とはいえ、ネジに対して家族のような気安さはない。だから他人に見られたも同然で、
いや他人というより苦手な異性に見られたというか…。
(ど、どうせ、みっともないとか思ってるんでしょうけどっ)
昔からいつもネジはヒナタを、大飯食らいだのドジだの間抜けだの、馬鹿にしてきた。
成長した今だってそれはあまり変わっていないように思える。
だからさっきのヒナタの醜態をネジはまたあの皮肉屋な口調で馬鹿にするのだろうし、
ヒナタの裸の事だって何とも思ってないのだろう。
(そ、そうよ、ネジ兄さんってそういう人だものっ)
変に意識しなくていいのだ、何事もなかったように振舞ってネジの嫌味の一つか二つを
黙って聞き流せば済む事なんだから。
そうヒナタは己を落ち着かせると脱衣所の扉を開けたのだった。

「…食べたらどうだ?あなたの分だ。」
キッチンで汁物を椀に注ぎながら、ネジがダイニングテーブルの前で所在なさ気に戸惑う
ヒナタに声をかけてきた。
「冷めないうちに。」
そういって席についたヒナタの前に椀を差し出してくる。
「すみません、私が用意すべきなのに…」
「気にするな、インスタントだ。」
カタンと小さく音を立ててネジは椅子を引く。
そうして腰を落ち着けると視線をヒナタに向けることなく、黙々と食べ始めた。
(どうしよう…気まずいなあ…)
てっきりくどくどと皮肉を言われるのかと構えていれば、肩透かしをくらったように何も言ってこない。
それがかえって気まずくてヒナタは困惑していた。
ちらちらとネジの様子を窺う。
男にしては滑らかな白い肌に端整な顔立ちに改めて感心してしまった。
(黙っていれば素敵なのにな…)
「何だ?」
まじまじとあからさまに見詰めすぎていたのか、ネジがそんなヒナタに訝しげに眉を顰める。
「俺に何かついてるのか?」
蕎麦のつゆでも跳ねたのかとネジは自分の口の周りを撫でた。
それに慌ててヒナタが手をわたわたと振る。
「ちっ…ちがっ。何にもついてないですっ!」
「?…そうか?じゃあ、なんだ?」
「べ、別に…」
頬が熱くなる。ネジが真っ直ぐ見詰めてくるのが気恥ずかしくて妙に落ち着かなかった。
言葉に詰まり空白の間が流れる。その気まずさをネジが破った。
「さっきの事、気にしてるなら杞憂に過ぎない。」
「え?」
「湯気でよく見えなかったし、あなたの大騒ぎに気を取られてそれどころじゃなかったしな。」
「!」

「それに見たところで何とも思わないから安心しろ。
 何せ、あなたからはまるで色気を感じないからな、俺は。」
「・・・・」
何だか安堵しつつも、馬鹿にされてるようで面白くない。
でも気まずさが少しは和らいだのでヒナタは漸くまともに息が吸えたような気がした。
だがやはり、女心が傷付いたのかヒナタの頬はむくれて少し膨らんでしまっていた。
そんなヒナタの姿にクスリと笑みを零しながらネジが宥めるように声をかけてきた。
「明日は早いんだろ?つまらん事など気にせず早く寝るんだな。」
「は、はい」
どうしてだろう?ぞんざいな口を聞く、およそ優しい素振りなど見せぬ従兄が
自分を思いやってくれるのが分かった。
そういえばヒナタが困った時助けてくれたのはいつもネジだった。
普段嫌味な口を聞きながらも昔から肝心な場面ではいつも彼が助けてくれていたように思う。
いや、実際そうだった。
(ずっとネジ兄さんの皮肉な口調や嫌味な態度で忘れちゃってたけど、いつも助けてくれて、
 さり気無く気遣ってくれてた…)
さっきだって、急いで来てくれたし、妙な真似をすることもなく、今もヒナタの負担を軽くしようとして
わざと馬鹿にしてるのかもしれなかった。
(少し、私も大人になったのかな?ネジ兄さんの気持ちが分かるようになれたなんて…)
ネジの気持ちを少し理解し、そしてその気持ちが嬉しくて、馬鹿にされてむくれた気持ちが次第に
緩んで思わず微笑んでいた。
「な、何だ?」
ヒナタが優しく微笑む様子に今度はネジが慌てた。
その仕草をも何だか可愛らしいと、大の男であるネジへそう感じていた。
だからいつになく穏やかに優しい声で話しかけられた。
「ありがとう、本当に感謝してます。ネジ兄さん」
「!」
言えた、本当はもっと早く伝えたかった言葉。
たじろぐネジにぺこりと頭をさげるとヒナタは照れ臭さから急いで部屋へと戻ったのだった。


                                
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