第二話「新生活」
(うわあ、思ったより広いなあ…)
「二階は使ってなかったから、少し汚れているかもしれないが。」
「そ、そんな事、でも本当にいいんですか?」
あの日から1ヶ月が過ぎて、ヒナタはネジの紹介で出版社に就職が決まっていた。
だが自立の第一歩である就職先は東京にあるため、こうして上京したわけで。 たまたまネジの家が東京だったので、下宿させてもらうことになったのである。
そしてそれがネジの示した条件でもあった。
『ばあやのチヨがぎっくり腰で入院したのでな、だから身の回りの世話など頼みたい。』
正直若い男であるネジと二人きりなんて、いかに世間知らずのヒナタでも警戒心を抱かずにはいられなかったが。
昔からこの秀麗な従兄が自分にしてきた仕打ちを思えばそれは杞憂に過ぎないと思えた。
だって彼は意地悪で皮肉屋で。彼は毎年夏と冬の休みには泊まりに来ていたのだが、毎回会うたびにヒナタを
愚図だの馬鹿だのそれはもう苛めてくれた。
だからそんな彼が自分に妙な気など起こすはずがないとヒナタは思う事にして、この条件を飲むことにしたのだ。 苦手な従兄の世話をするのは少し気が退けたが、それ以上に就職したかったから。
「しかし、そこまで縁談が嫌だったのか?」
ヒナタの部屋にと決めた洋間の窓を開けながらネジがヒナタに聞いて来る。
新鮮な空気が爽やかな風と共に流れ込んできた。
それに髪をなびかせながらゆるりとネジが振り向く。
一瞬それに見惚れて答えに遅れたヒナタは慌てて言葉をつむいだ。
「う、うんっ。だ、だって私、自分の力で働いてみたかったし、そして何より自由になりたかったのっ」
「自由?」 「う、うん…自由に自分の意思で生きてみたくて…」 「ふうん。あなたにしては成長したじゃないか。」 「そ、そうかなっ?」
小さく照れ笑いするヒナタにネジは皮肉も通じないのかと嘆息した。
今まで従順で大人しい彼女は流されるままに生きてきた。それが苛立たしくていつも冷たく当たってきたが。
「ヒナタ様、掃除が終わったら買い物にでかけようか。スーツとかいろいろ揃えないとな。」
「え?で、でももう買ってあるから…」 「あれじゃ足りないだろう?」
ヒナタの荷物は酷く少なかった。自立するのだからと彼女は最小限の荷物しか持ってこなくて、ヒアシからの
餞別も断ったらしい。
「で、でも悪いから…」
「じゃあ、給料の前払いだと思えばいい。家事全般頼むんだからな。」 「え?で、でもそれは下宿代と相殺だからっ」 「いいから!」
意外に頑固で細かいヒナタの手をとって、それ以上に頑固なネジは強引に外へ出かけたのであった。
「これなんてどうだ?」 「え…あ、うん」
ネジに連れられて来たブティックは高級感漂う落ち着いた雰囲気で、でもヒナタの知らない洒落た感じがする。
「お客様は本当にお目が高いですわ」 ネジのセンスは本当に良かった。
次々と決められてゆくスーツや小物は派手でなく、かといって地味という訳でもなく
絶妙なバランスでヒナタを引き立ててくれるものばかりだった。
「ありがとうございました。」
荷物は後で自宅に届くように手配して、店を出る。
さて、そろそろ昼食にしようかとネジがヒナタを連れて来たのは。
「え?ここですか?」
ヒナタは思わず眼を剥いてしまった。
だって目の前に佇むというか辛うじて建ってるといったほうがいいような店は酷くボロだったから。
今さっきまでの高級な雰囲気は微塵もなくて、下町の風情というには余りにボロなその店に
ヒナタはカルチャーショックを覚える。
「さ、入ろうか」
ネジに促されてヒナタはのれんをくぐった。中に入ると同時に美味しい匂いが鼻腔をくすぐる。
「いらっしゃい、あ!ネジ、来てくれたんですか!!」
カウンターから元気な青年のはきはきとした声が二人を出迎えた。
その青年の太い眉と大きな瞳にヒナタは一瞬たじろいでしまう。
「ああ、今日も美味いのを頼むぞ、リー。」
「分かってますよ、ネジ。」
ネジに促されてカウンター席に着くヒナタにリーと呼ばれた青年店主がにっこりと白い歯をみせて笑った。
「やあ、君がヒナタさんですね!ネジからお話はよく聞いてますよ!」
(え?)
思わず隣に座るネジへ視線を向けると、そこには困ったように頬を染める従兄の姿があった。
「余計な事はいい、それより注文はとらないのか?」 「あっ、そうでした!何になさいますか?」
そう言ってリーと呼ばれた青年はメニューをヒナタとネジへカウンター越しに差し出してきた。
先程ネジがヒナタをリーに何と評していたのか気になるところではあるが、とりあえずメニューに目を通すヒナタ。
そしてその横ではどうにか話しをはぐらかす事に成功して安堵の息をつくネジの姿。
そんな二人を交互に眺めながらリーは目を細めていた。
(青春がやっと君にも来たんですね、ネジ!)
彼は心の中で、親友と決めている秀麗な青年へとナイスなガッツポーズを決めて祝福していた。
と、そこで目の前の愛らしいヒナタが小さな声で、あの…と彼に声を掛けて来る。
それに元気良く、ハイッ!と返事をして彼は注文を受けるべくカウンターから身を乗り出した。
「あ、あの…こ、これ、さばミソ煮定食をお願いします…」
「ラジャー!」 「ら…?」
目の前でびしいっと音がするような敬礼をされて、ヒナタは又もカルチャーショックを受けてしまう。
(こ、これが東京なのだわ、覚えておかなくちゃ…ラジャー…か…)
明日の入社式で何か言われたらこれで返そうと密かにヒナタが決意していると、ネジが
「じゃあ、焼き鯖定食で」とメニューをリーに返しながら注文していた。
「ラジャー!」
くるりと踵を返してリーがいそいそとカウンターの中で料理を作り始める。
そして訪れた一瞬の沈黙にヒナタは恐る恐るネジへと視線を向けたのだった。
|